เข้าสู่ระบบ朝というものは、勝った者にも、負けた者にも、同じ顔をしてやって来る。
それが少しだけ腹立たしかった。 昨夜、王宮大広間で婚約破棄を告げられた。 妹は泣き、殿下は怒り、父は家の恥だと言い、母は私を責めた。 私は公爵家の馬車には乗らなかった。 王宮の裏門から出る頃には、夜の冷えが手袋の中まで染みていた。ギルベルト閣下が手配した馬車は、驚くほど地味だった。王弟殿下の持ち物とは思えないほど飾り気がなく、車体も濃い灰色で、家紋すら小さく隠すように彫られていた。 御者は何も聞かなかった。 それがありがたかった。 公爵家に戻る気にはなれなかったので、私は王都の西区にある母方の古い別邸へ向かった。もう何年も使われていない、小さな屋敷だ。 小さい、といっても公爵家の基準での話で、普通なら十分すぎるほど立派なのだが。 ただ、ヴェルクレア本邸のように、絨毯を踏むたび誰かの視線を感じることはない。 それだけで、ずいぶん息がしやすかった。 別邸の管理人である老夫婦は、夜更けの訪問にも文句一つ言わずに部屋を整えてくれた。 夫のトマは白髪交じりの痩せた男で、昔から口数が少ない。妻のマリは丸顔で、私を見るなり眉を八の字にした。 「お嬢様、お顔の色が紙みたいでございますよ」 「紙よりは丈夫です」 「そういうことを言う方ほど、夜中に倒れるんです」 「倒れる予定はありません」 「倒れる方は皆さま、予定には入れておりません」 マリはきっぱり言って、私の肩から夜会用の外套を剥がすように取った。 使用人にそこまで乱暴に扱われることは、公爵家ではなかった。 けれど、不思議と嫌ではない。 「お茶を淹れます。甘いものも」 「夜中ですよ」 「夜中だからです」 「太りますよ」 「お嬢様はまず人間らしく太ってくださいませ。骨と書類だけで出来ているみたいなお身体をして」 私は返す言葉に詰まった。 マリは勝ったという顔で頷き、厨房へ消えた。 その後、温かい蜂蜜入りのミルクを飲まされ、焼き菓子を二つ食べさせられ、湯を使わされ、半ば強制的に寝台へ押し込まれた。 眠れるとは思わなかった。 だが、次に目を開けた時、窓の外は薄く白んでいた。 私は、泣いていなかった。 夢も見なかった。 ただ、眠った。 それだけのことが、少し怖かった。 婚約を失い、家族を失い、名誉を失った翌朝に、人は眠れてしまうのだ。 人間は案外、薄情にできている。 あるいは、私が思っていたよりも、ずっと前から限界だったのかもしれない。 「お嬢様。起きていらっしゃいますか」 扉の外から、マリの声がした。 「起きています」 「よかった。死んでいらしたらどうしようかと」 「朝から縁起でもないことを」 「昨夜のお顔を見れば、誰だってそう思います」 マリは返事を待たずに部屋へ入ってきた。 手には盆。 温かい紅茶と、焼きたてのパン。蜂蜜。果物を煮たもの。薄く切った燻製肉。 「朝食です」 「多すぎます」 「昨夜、焼き菓子を二つしか召し上がっておりません」 「二つも食べました」 「その言い方がもう危険なんですよ」 マリは寝台脇の小卓に盆を置き、私の顔をじっと見た。 「お嬢様」 「何でしょう」 「泣いてもよろしいのですよ」 その一言で、胸の奥がわずかに軋んだ。 家族に言われなかった言葉。 婚約者に言われなかった言葉。 昨夜、大広間にいた誰からも与えられなかった言葉。 私は少しだけ目を伏せた。 「泣き方を忘れました」 「そういう時は、まず温かいものを飲むんです」 「泣き方と紅茶に関係が?」 「あります。冷えた人間は、まず泣けません」 妙な理屈だった。 けれど、妙に説得力もあった。 私は紅茶を手に取った。 湯気の向こうで、マリが心配そうにしている。 「本邸から連絡は?」 「まだありません」 「そうですか」 「ただ、朝一番で王宮から使いが来ました」 私は紅茶を口に運びかけた手を止めた。 「王宮から?」 「はい。宰相閣下より、本日九時に監査局へ来るように、と」 「……人使いが荒い」 「そのようなことをお嬢様がおっしゃるのは珍しいですね」 「昨夜、本人が認めました」 マリは一瞬ぽかんとした後、小さく笑った。 「では、朝食は全部召し上がってください。戦場に行くなら、腹に入れてからです」 「監査局です」 「似たようなものでございましょう」 否定しきれなかった。 私はパンを小さくちぎり、口に入れた。 温かかった。 それだけで、少しだけ胸が痛くなった。 公爵家の朝食では、私の席の料理が冷めていることがよくあった。 偶然だと母は言った。 使用人の手違いだと父は言った。 セレスティナは「お姉様は熱いものが苦手でしょう?」と首を傾げた。 私は一度も、熱いものが苦手だと言ったことはない。 だが、誰も聞かなかった。 誰も。 「……お嬢様?」 「何でもありません」 「何でもない顔ではございませんが」 「紅茶が熱かっただけです」 「それはようございました」 マリはそれ以上、追及しなかった。 その距離感が、ありがたかった。 同じ頃、王宮では朝から三つの鐘が鳴った。 一つ目は、第二王子執務室からの緊急呼び出し。 二つ目は、文書局からの確認要請。 三つ目は、王宮会計院からの苦情だった。 そして、それらすべてが最終的に辿り着いたのは、第二王子エドガル殿下の執務机だった。 「これは何だ」 エドガル殿下は、机の上に積み上げられた書類を見て、心底うんざりした声を出した。 まだ朝の八時前である。 昨夜は夜会の後始末でほとんど眠れなかった。 婚約破棄の件について父王から呼び出され、母后からは「あなたは少し軽率です」と遠回しに叱責され、兄である王太子からは無言で見下ろされた。 そのうえ、朝になれば机の上は紙の山。 エドガルは頭を抱えた。 「ダリオ、これは昨日までなかっただろう」 側近のダリオ・ベルメールは、困り果てた顔で書類の束を抱えていた。 彼は悪い人間ではない。 ただ、能力よりも愛想で出世してきた男だった。 「殿下、昨日までもございました」 「嘘を言うな。こんな量があれば、私が気づく」 「リディア様が、毎朝おまとめになっておりましたので」 エドガルは眉を寄せた。 「リディアが?」 「はい。重要度順に三つに分け、殿下がご覧になるべき箇所には青い栞を、署名のみ必要な箇所には銀の栞を、後回しにしてよいものには紐をかけて……」 「なぜそれを昨日まで誰も言わなかった」 「殿下が『リディアは細かい』とおっしゃるので」 ダリオは途中で口をつぐんだ。 言い過ぎたと思ったのだろう。 エドガルは唇を噛んだ。 リディアは確かに細かかった。 会議の前には必ず要点をまとめた紙を渡してきた。 『殿下、南部侯爵は三年前の減税延期をまだ根に持っておられます。最初に穀物輸送路の改善案へ触れてくださいませ』 『殿下、東方商会長は夫人の病が長引いております。冒頭でご容態を尋ねられますと、話が円滑に進みます』 『殿下、その署名欄は一枚目ではなく三枚目でございます。一枚目に署名なさると、予算案ではなく添付資料の承認になります』 思い出すと、少し苛立つ。 彼女はいつも正しかった。 正しかったから、余計に苛立った。 自分が何も知らないことを、隣にいるだけで突きつけられるようだったから。 「南部侯爵との会談資料はどうした」 「それが……」 ダリオは、さらに顔色を悪くした。 「リディア様がお持ちではないかと」 「昨日もそう言ったな。探したのか」 「探しました。執務室にも、文書局にも、王子妃教育室にもございません」 「ならば、リディアの部屋にあるのだろう」 「公爵家へ使いを出しましたが、リディア様は昨夜、本邸に戻られていないそうです」 エドガルは椅子から立ち上がった。 「何?」 「ヴェルクレア家も、所在をご存じないと」 「馬鹿な。あの女が行く場所など限られているだろう」 言った直後、エドガルはなぜか胸の奥がざわついた。 あの女。 昨夜まで婚約者だった人を、今、自分はそう呼んだ。 だが、口にしてしまった言葉は戻らない。 ダリオは気まずそうに視線を落とした。 「それと、文書局から、東方商会との税率調整案について確認が来ております。昨日の夜、リディア様から『今後は第二王子殿下のご判断を仰ぐように』と返送があったそうで」 「返送?」 「はい。封は開かれておらず、そのまま」 エドガルのこめかみが引きつった。 「彼女は本気で私を困らせるつもりか」 その場にいた全員が、何も答えなかった。 答えれば、もっと困るからだ。 沈黙に苛立ったエドガルは、机の上の書類を一枚手に取った。 「これくらい、自分でできる」 彼はそう言って、文面に目を落とした。 東方商会の税率調整に関する補足意見書。 第一項、関税免除品目の再分類について。 第二項、南部穀物輸送路との重複税の扱い。 第三項、王都倉庫使用料の暫定的引き下げに伴う損失補填。 第四項、ヴェルクレア公爵家経由の保証状について。 そこまで読んで、エドガルは紙を机に置いた。 「……これは、誰に聞けば分かる」 ダリオは気の毒そうな顔をした。 「昨日までは、リディア様に」 部屋の空気が、重く沈んだ。 その時、扉が叩かれた。 「殿下。南部侯爵がお着きです」 エドガルは固まった。 ダリオが小声で言う。 「会談開始まで、あと半刻です」 「……資料なしで会えるか」 「おそらく、難しいかと」 「なぜだ」 「南部侯爵は、前回の会談で殿下が侯爵夫人のお名前を間違えたことを、まだ根に持っておられますので」 「そんなこと、あったか?」 「ございました。その後、リディア様が侯爵夫人の好まれる白百合をお詫びの品として手配し、どうにか収めておられました」 エドガルは額を押さえた。 記憶の片隅に、ぼんやりと浮かぶ。 そういえば、そんなことがあったかもしれない。 リディアが何か言っていた気がする。 だが、あの時は「細かいな」と思って聞き流した。 聞き流したことばかりが、今になって机の上に戻ってくる。 「リディアを呼べ」 「どちらへ?」 「探せ!」 エドガルが怒鳴ると、ダリオは慌てて頭を下げた。 だが彼の顔には、言葉にしない疑問が浮かんでいた。 婚約破棄した相手を、今さら何の権利で呼ぶのか、と。 ヴェルクレア公爵家でも、朝から静かな混乱が起きていた。 もっとも、公爵家の混乱は王宮ほど派手ではない。 銀の盆を持った侍女が廊下で立ち尽くし、執事が帳簿室の前で鍵束を握ったまま青ざめ、母オルガが朝食の席で眉をひそめていた。 「リディアはまだ戻らないの?」 母は紅茶に口をつける前に言った。 その声には怒りと不安が混じっている。 不安の方が少し大きいことに、本人だけが気づいていなかった。 執事長のアルマンは、慎重に頭を下げた。 「昨夜はお戻りになっておりません」 「どこへ行ったというの。まさか、王宮で騒ぎを起こしたうえに外泊まで?」 「奥様、まだ外泊と決まったわけでは」 「戻っていないなら外泊でしょう」 母は苛立ったようにナプキンを握った。 隣の席では、セレスティナがスープ皿を前にして座っていた。 昨夜の涙が嘘のように、顔色は悪くない。 ただ、少しだけ唇を尖らせている。 「お姉様、まだ怒っているのかしら」 その言葉に、母はすぐ反応した。 「セレス、あなたが気にすることではないわ」 「でも、私のせいで……」 「あなたのせいではありません」 「けれど、お姉様がいないと、お茶会のお返事が分からないの。昨日までにまとめておくって言っていたのに」 母は言葉に詰まった。 実は、同じことを思っていた。 今日の午後、母が主催する慈善茶会の招待状の返事を整理し、席次を組まなければならない。 どの夫人を上座にするか。 誰と誰を隣にしてはいけないか。 誰の寄付額が増え、誰の家が最近資金繰りに困っているか。 母は感覚で覚えているつもりだった。 だが、実際にはいつもリディアが下書きを作っていた。 『お母様、ローデン伯爵夫人とミルシュ男爵夫人は隣にしない方がよろしいかと。昨年の寄付額の件で揉めております』 『お母様、セレスティナの席は王子殿下の近くではなく、あえて少し離した方が噂を抑えられます』 『お母様、この孤児院への寄付額だけ、昨年と比べて不自然に少なくなっています。支出明細を確認させてください』 最後の言葉を思い出した瞬間、母は紅茶をこぼしかけた。 支出明細。 リディアはどこまで気づいていたのだろう。 「奥様」 執事長が控えめに声をかける。 「帳簿室の鍵についてですが」 「鍵?」 「月次収支の補正資料が、昨夜リディアお嬢様の机から一部返却されております。ただ、確認印が押されておりません」 「なら、あなたが確認なさい」 「恐れながら、補正の根拠となる計算表がございません」 「リディアの机にあるでしょう」 「机にはございませんでした。おそらく、お嬢様が別に管理されていたものかと」 母は眉をひそめた。 「どうしてあの子は、何でも自分だけで抱え込むのかしら」 執事長は口を開きかけて、やめた。 抱え込ませたのは誰か。 この屋敷で、その問いを口に出せる者はいない。 セレスティナはスープを匙でかき回しながら、小さく言った。 「お姉様、意地悪ね」 「セレス?」 「だって、私たちが困るって分かっていて、帰ってこないんでしょう? 昨日だって、あんな言い方をして……みんなの前で私を責めて……」 セレスティナの声が少し湿る。 母はすぐに席を立ち、娘の肩に手を置いた。 「可哀想に。まだ怖かったのね」 「怖いわ。お姉様、最後に私を見た時、知らない人みたいだったもの」 「大丈夫よ。お母様がついているわ」 「でも、お母様」 セレスティナは不安げに母を見上げた。 「お姉様、戻ってきたら、私に謝ってくれるかしら」 母は一瞬だけ黙った。 いつもなら「もちろんよ」と答えただろう。 だが、昨夜のリディアの目を思い出すと、簡単には言えなかった。 怒ってはいない。 もう期待がない。 リディアは確かに、そう言った。 その声は冷たかった。 けれど、母はそれをただの反抗とは思えなかった。 もっと深い場所で、何かが終わった声だった。 「……戻ってきたら、お母様が話します」 「叱ってくれる?」 「ええ」 セレスティナは安心したように微笑んだ。 その顔を見て、母は胸を撫で下ろす。 この子は弱い。 守らなければならない。 そう思うことで、母は自分を保っていた。 リディアは強いから。 リディアは一人でも大丈夫だから。 そう思わなければ、母は気づいてしまう。 自分が何年も、強い娘にだけ重荷を背負わせてきたことに。 王国監査局は、王宮の東棟の端にある。 華やかな大広間や謁見の間とは違い、装飾は少ない。壁は白く、床は磨かれているが、絨毯は最低限。廊下には花瓶も絵画もほとんどない。 初めて訪れる貴族令嬢なら、地味すぎて顔を曇らせるだろう。 私は、嫌いではなかった。 無駄がない。 無駄がない場所は、少し安心する。 九時の鐘が鳴る少し前、私は監査局の扉の前に立った。 夜会用のドレスではない。 別邸に残されていた、濃灰色の外出着を着ている。飾りは少なく、袖口だけに黒い刺繍がある。髪も簡単にまとめただけだ。 鏡で見た時、ずいぶん地味だと思った。 だが、マリは満足そうに言った。 『お嬢様、戦場に行く格好としては上出来です』 だから監査局は戦場ではない。 ……たぶん。 「リディア・ヴェルクレア様ですね」 受付の若い官吏が声をかけてきた。 「はい」 「宰相閣下より、お通しするよう申しつかっております」 彼は私をちらりと見た。 目に好奇心がある。 昨夜の婚約破棄の噂は、もう王宮中を駆け巡っているのだろう。 冷たい悪女。 妹を階段から落とした令嬢。 王子に捨てられた女。 それなのに朝から監査局へ来た奇妙な元婚約者。 噂の材料としては、申し分ない。 案内された部屋は、宰相執務室の隣にある小さな会議室だった。 中には、ギルベルト閣下がいた。 机の上には書類が五つの山に分けられている。 紅茶はない。 菓子もない。 代わりに、インク壺が三つと、削りたてのペンが並んでいた。 「座れ」 開口一番、それだった。 「おはようございます、閣下」 「ああ。座れ」 「挨拶は一往復で終わりですか」 「必要なら二往復するが、時間の無駄だ」 「なるほど。冷血宰相」 「昨日より呼び方に遠慮がなくなったな」 「婚約破棄された女は失うものが少ないので」 ギルベルト閣下は、ほんのわずかに口元を動かした。 それが彼の笑い方らしい。 「朝食は?」 「いただきました」 「倒れられると困る」 「ご心配ですか」 「人手不足だ」 「本当に褒め言葉も気遣いも下手でいらっしゃる」 「努力はしていない」 「でしょうね」 椅子に座ると、ギルベルト閣下は一枚の書類を差し出した。 「王国臨時監査補佐官。任期は三か月。表向きは、王宮内の文書整理と予算案確認の補佐」 「表向きは」 「裏では、第二王子派とヴェルクレア公爵家周辺の不正を洗う」 私は書類に目を通した。 形式は整っている。 王印ではなく宰相印。 任命権限は十分。 ただし、内容の一部に気になる記述があった。 「閣下」 「何だ」 「この条項です。『必要に応じて宰相直属の命に従う』とありますが、範囲が曖昧です」 「曖昧にした」 「なぜ」 「君が動きやすいように」 「私が悪用するとはお考えにならないのですか」 「悪用できるくらいの裁量がなければ、悪事は暴けない」 この人は、本当に厄介だ。 正論の形をした危険物を、何のためらいもなく差し出してくる。 「署名すれば、私は正式に王宮の不正調査に関わることになります」 「そうだ」 「同時に、昨夜の件について、私は王家側に取り込まれた女だと噂されるでしょう」 「すでに噂されている」 「早いですね」 「王宮の噂は病より早い」 「治療法は?」 「証拠で黙らせる」 私は思わず、少し笑った。 「乱暴ですね」 「有効だ」 その時、扉が叩かれた。 ギルベルト閣下が返事をすると、年配の官吏が入ってきた。細い体に、神経質そうな顔。手には分厚い書類束。 「宰相閣下。第二王子執務室より、至急の照会が三件来ております」 「放置しろ」 「よろしいので?」 「死にはしない」 官吏は困った顔をした。 「南部侯爵との会談資料が見当たらないため、リディア様に所在確認をしたいとのことです」 私は手元の書類から顔を上げた。 早い。 いくら何でも早すぎる。 ギルベルト閣下がこちらを見る。 「だそうだ」 「私の手元にはございません」 「本当か?」 「はい。昨夜の時点で、殿下の執務室へ返却すべき資料一覧を作成し、未処理のものはすべて目録に記載しました」 年配官吏が目を丸くした。 「目録を?」 「ええ。会談資料そのものは、文書局の第三保管棚、南部領政務の分類にあるはずです。ただし、殿下が読むべき要点表は私物扱いになりますので、すでに破棄しました」 官吏の口が、ゆっくり開いた。 「破棄……」 「婚約者として作成していた補助資料ですので」 ギルベルト閣下が、喉の奥で低く笑った。 私は彼を見た。 「何か」 「いや。悪女らしくなってきた」 「褒め言葉として受け取っておきます」 官吏はまだ動揺していた。 「しかし、要点表がなければ第二王子殿下は」 「南部侯爵のご夫人のお名前は、エレオノーラ様です。侯爵の次男は馬車事故で右足を痛めて以来、階段の多い屋敷を嫌っておられます。会談の冒頭では、南部穀物の輸送路ではなく、まず王都倉庫使用料の引き下げについて触れてください。侯爵はそこを譲歩の入口にするはずです」 そこまで言ってから、私は口を閉じた。 しまった。 癖で説明してしまった。 ギルベルト閣下の視線が、少しだけ鋭くなる。 「今の内容を、なぜ知っている」 「……以前、必要でしたので」 「第二王子殿下は知っているのか」 「私が渡した要点表には書きました」 「読んだ形跡は?」 「ありませんでした」 年配官吏が、何とも言えない顔をした。 同情と呆れの混ざった、実に人間らしい顔だった。 「リディア様、その情報を第二王子執務室へ伝えても?」 私は少し考えた。 伝えれば、また同じだ。 殿下は私を切り捨てても、私の仕事だけは使う。 それでは何も変わらない。 「文書局の保管棚の場所だけお伝えください」 「要点は?」 「それは殿下が資料を読めば分かることです」 官吏は、目だけでギルベルト閣下に確認した。 閣下は短く言う。 「その通りにしろ」 「承知いたしました」 官吏が退室すると、部屋に静けさが戻った。 ギルベルト閣下が、机に指を置く。 「未練があるのかと思った」 「今ので、ですか」 「途中まで助けようとしていただろう」 「癖です」 「ひどい癖だな」 「十年かけて身につけましたので」 自分で言って、少しだけ胸が痛くなった。 ギルベルト閣下はその痛みに気づいたのか、気づかなかったのか、何も慰めなかった。 代わりに、別の書類を私の前へ置く。 「では、癖を別の方向に使え」 「これは?」 「慈善基金の支出明細だ」 私は指先を止めた。 母が主催する慈善基金。 表向きは、王都の孤児院と負傷兵家族を支えるためのもの。 母はそれを誇りにしていた。 『貴族とは、持たざる者に手を差し伸べる義務があるのよ』 そう言いながら、母は毎年、新しいドレスを仕立てた。 慈善茶会のために。 慈善のためのドレス。 慈善のための宝石。 慈善のための馬車飾り。 私は何度も、その言葉に違和感を覚えていた。 「この資料を、なぜ閣下が」 「監査局に匿名で投げ込まれた」 「匿名?」 「ああ。差出人はない」 私は書類をめくった。 支出項目。 寄付金収入。 孤児院への送金額。 茶会運営費。 衣装費。 馬車修繕費。 装花代。 警備費。 謝礼。 一見すると、整っている。 だが、数字は嘘をつく時ほど行儀よく並ぶ。 私は一枚目を読み、二枚目を読み、三枚目で眉をひそめた。 「……孤児院への送金額が、昨年より三割減っています」 「理由は?」 「表向きは、修繕費の増加」 「実際は?」 「修繕費の支払先が不自然です。石材業者の名義になっていますが、この印は王都西区の仕立屋のものに似ています」 ギルベルト閣下の目が細くなる。 「なぜ仕立屋の印を知っている」 「セレスティナのドレスをよく仕立てていましたので」 「よく?」 「月に二、三着ほど」 「多いな」 「多いです」 私は淡々と答えた。 多いなどというものではない。 セレスティナは新しい夜会のたびに、新しいドレスを欲しがった。 『だって、お姉様の婚約者の前で、みすぼらしい格好はできないわ』 母は笑って許した。 『セレスは可愛いから、何を着ても似合うもの』 その支払い処理をしていたのは、私だった。 「この支出、セレスティナの衣装費に流れている可能性があります」 「証明できるか」 「仕立屋の元帳があれば」 「取れる」 即答だった。 「早いですね」 「監査局だからな」 「便利な職場ですこと」 「君の方が便利そうに使い始めている」 私は書類から目を上げた。 ギルベルト閣下は、まっすぐ私を見ていた。 「リディア。ここから先は、家族の話ではなくなる」 「分かっています」 「本当にか」 「……分かっているつもりです」 「つもりでは足りない」 冷たい声だった。 だが、責める声ではなかった。 確認する声。 戻れる最後の地点に立たせる声。 「君がこの書類を追えば、母親を告発することになるかもしれない。妹も無関係では済まない。父親の管理責任も問われる。第二王子の名前も出る」 「はい」 「昨日の腹いせで踏み込める場所ではない」 「腹いせではありません」 「では、何だ」 私は答えようとして、すぐには言葉が出なかった。 復讐。 そう言えば簡単だ。 だが、それだけではない。 怒りはある。 悔しさもある。 でも、それ以上に。 「……私が、今まで何のために我慢してきたのか、知りたいのです」 言葉にすると、胸の奥が少し震えた。 「家のためだと言われました。妹のためだと言われました。母のため、父のため、殿下のため、王家のため。私はずっと、そういうものだと思っていました」 ギルベルト閣下は黙って聞いている。 私は書類の上に視線を落とした。 「でも、その我慢の先にあったものが、誰かの贅沢や嘘だったのなら」 声が、少しだけ掠れた。 「私は、自分が何を守らされていたのか、知る権利があると思います」 ギルベルト閣下は、しばらく何も言わなかった。 やがて、低く言った。 「十分だ」 「何がでしょう」 「監査官の動機としては、十分だ」 「清らかではありませんね」 「清らかな人間は、汚れた帳簿を最後まで読めない」 私は小さく息を吐いた。 また、この人は妙な形で肯定する。 優しくはない。 甘くもない。 けれど、私の怒りを否定しない。 それが、どうしようもなく救いだった。 私は任命書を手に取り、署名した。 リディア・ヴェルクレア。 その名前を書いた瞬間、昨夜までの自分から少し離れた気がした。 公爵家の長女。 第二王子の婚約者。 セレスティナの姉。 それらの名前の下に押し込められていた私が、初めて自分の手で仕事を選んだ。 「契約成立だな」 「ええ」 「では最初の仕事だ」 「早いですね」 「人手不足だと言った」 「冷血宰相」 「悪女監査官」 思わず顔を上げた。 「今、何と?」 「悪女監査官」 「その呼び名は不名誉すぎます」 「昨夜の君には似合っていた」 「褒め言葉が本当に壊滅的です」 「改善予定はない」 私は呆れて、少しだけ笑ってしまった。 笑った自分に驚いた。 昨日、婚約破棄されたばかりだというのに。 家族に信じられなかったばかりだというのに。 人は、笑えてしまう。 それは薄情なのではなく、たぶん、生きるための癖なのだろう。 その時、再び扉が叩かれた。 今度は若い官吏が、ほとんど飛び込むように入ってきた。 「宰相閣下、失礼いたします!」 「騒がしい」 「第二王子殿下と南部侯爵の会談が、開始十分で中断しました」 私は思わず目を閉じた。 早い。 やはり早い。 ギルベルト閣下は眉一つ動かさない。 「理由は」 「殿下が侯爵夫人のお名前を間違えられました」 「何と」 「エレオノーラ様を、エレミア様と」 私は額に手を当てた。 「惜しくもありません……」 若い官吏が気の毒そうに続ける。 「さらに、侯爵家の次男が馬車事故で右足を悪くしている件について、『狩猟大会でのご活躍を期待している』と」 私は今度こそ机に突っ伏したくなった。 ギルベルト閣下が私を見る。 「癖で助けに行くか?」 「行きません」 「本当に?」 「……行きません」 「今、一瞬迷ったな」 「十年の癖は重いのです」 「矯正しろ」 「努力します」 若い官吏は困惑した顔で私たちを見ていた。 「それで、第二王子殿下より、リディア様に至急お戻りいただきたいとの要請が」 「お断りします」 自分でも驚くほど、はっきり声が出た。 官吏が目を丸くする。 「よ、よろしいのですか」 「私は現在、王国臨時監査補佐官として宰相閣下の直属任務中です。第二王子殿下の婚約者ではございませんので、殿下の会談補佐を行う権限も義務もありません」 言ってから、私はギルベルト閣下を見た。 「これでよろしいですか」 「完璧だ」 「褒め言葉が普通だと不安になります」 「では、悪女らしい」 「ありがとうございます」 若い官吏は、何かとんでもない場面に立ち会っているような顔で頭を下げ、退室した。 扉が閉まる。 私は深く息を吐いた。 助けなかった。 助けられるのに、助けなかった。 胸が痛い。 でも、その痛みは罪悪感だけではなかった。 自由になろうとする時、人はきっと、自分を縛っていた鎖の形に痛むのだ。 「リディア」 ギルベルト閣下が私の名を呼んだ。 「はい」 「よく耐えた」 短い言葉だった。 それだけだった。 けれど、喉の奥が熱くなった。 私は慌てて書類へ目を落とした。 「……仕事をします」 「ああ」 「仕立屋の元帳と、慈善基金の支出明細を照合します。あと、ヴェルクレア家の月次収支も必要です」 「手配する」 「それと、王都西区の孤児院への実際の送金記録を」 「それも取れる」 「便利ですね、監査局」 「便利にした」 「閣下が?」 「私が」 誇るでもなく、当然のように言う。 この人は、本当に王国の不正を潰すために生きているらしい。 私は書類の束を引き寄せた。 数字を見る。 項目を追う。 違和感を拾う。 すると、不思議なことに、胸のざわめきが少し落ち着いた。 泣くより先に、怒るより先に、私は働く。 それもまた、少し悲しい癖だった。 けれど、今はその癖を武器にする。 昼近くになり、仕立屋の元帳の写しが届いた。 仕事が早い。 本当に早い。 私は支出明細と照らし合わせ、三つ目の項目で手を止めた。 「閣下」 「見つけたか」 「はい」 紙の上には、石材業者名義の支出。 だが、実際の受取先は王都西区の仕立屋。 用途は、桃色の夜会用ドレス。真珠刺繍入り。袖口に銀糸。追加料金、宝石飾り。 日付は、昨夜の夜会の十日前。 着用者名。 セレスティナ・ヴェルクレア。 私は、しばらくその名前を見つめた。 怒りは湧かなかった。 かわりに、ひどく冷たいものが胸の底へ沈んでいく。 「妹のドレス代が、孤児院の修繕費から出ています」 ギルベルト閣下の顔から、わずかな表情も消えた。 「母親は知っていたと思うか」 「少なくとも、署名はあります」 私は次の紙をめくった。 そこには、母の流麗な署名があった。 オルガ・ヴェルクレア。 何度も見た字だ。 幼い頃、私の誕生日祝いのカードには書かれなかった字。 セレスティナのドレスの承認書には、迷いなく書かれている字。 私は唇を結んだ。 「お母様は、慈善のためだとおっしゃっていました」 「そうか」 「持たざる者に手を差し伸べるのが貴族の義務だと」 「そうか」 「……その手で、孤児院のお金を妹のドレスに変えていたのですね」 言葉にした瞬間、胸の奥で何かが崩れた。 泣きそうになった。 けれど涙は出なかった。 ギルベルト閣下は、私から書類を奪わなかった。 目を背けろとも言わなかった。 ただ、私がその署名を最後まで見ることを許した。 それが残酷で、ありがたかった。 「リディア」 「はい」 「この件は、まだ始まりだ」 「分かっています」 「今なら降りられる」 私はゆっくり顔を上げた。 ギルベルト閣下の灰色の瞳が、静かに私を見ていた。 私は母の署名がある紙を机に置き、上から手を重ねた。 「降りません」 声は震えなかった。 「私が何を守らされていたのか、最後まで見届けます」 ギルベルト閣下は頷いた。 「では、次は孤児院だ」 「はい」 「現地で確認する」 「今からですか」 「善は急げと言うだろう」 「閣下の場合、悪を急いで潰す、では?」 「そちらの方が正確だな」 私は立ち上がった。 その時、扉の外が騒がしくなった。 官吏の制止する声。 高い、聞き慣れた声。 「通して。私、お姉様に会いに来ただけなの。どうして駄目なの?」 胸の奥が、すっと冷える。 セレスティナ。 ギルベルト閣下が私を見る。 「会うか」 私は一瞬だけ目を閉じた。 逃げたい。 そう思った。 今はまだ、母の署名を見た直後だ。 妹の顔を見れば、何を言うか分からない。 でも。 逃げれば、また昨日までの私に戻る。 妹が泣き、私が折れる。 その形に戻ってしまう。 「会います」 私は答えた。 扉が開かれる。 セレスティナは、薄い水色の外出着を着ていた。 昨夜の桃色のドレスとは違う。 だが、目元だけは赤く染めている。 泣いてきた顔。 あるいは、泣いてきたように見える顔。 「お姉様」 セレスティナは私を見るなり、安心したように微笑んだ。 まるで、昨日のことなど姉妹喧嘩の延長にすぎないと言いたげに。 「よかった。ここにいたのね」 「何の用ですか」 私の声は、自分でも驚くほど冷たかった。 セレスティナは傷ついたように目を揺らす。 「そんな言い方、しないで。私、心配していたのよ。お母様も、お父様も、殿下も……みんな困っているの」 「そうでしょうね」 「ねえ、お姉様。意地を張るのはもうやめましょう?」 セレスティナは一歩近づいた。 官吏たちが気まずそうに目を逸らす。 ギルベルト閣下だけが、椅子に座ったまま動かない。 「帰りましょう。お姉様が謝れば、きっと大丈夫よ。殿下も、本当はお姉様を嫌いになったわけじゃないと思うの。ただ、昨日は皆の前だったから……」 「セレスティナ」 私は妹の言葉を遮った。 「あなたは昨日、階段から落ちましたね」 「……え?」 「自分でドレスの裾を踏んだのですか」 妹の顔が、わずかに強張った。 「何を言っているの? 私、怖くて、よく覚えていなくて」 「そうですか」 「お姉様、また私を責めるの?」 「責めてはいません。確認しています」 「同じよ!」 セレスティナの声が大きくなった。 その瞬間、周囲の官吏たちがこちらを見た。 妹はそれに気づき、すぐに声を弱める。 「……同じよ。お姉様はいつも、そうやって私を追い詰めるの」 上手い。 本当に上手い。 だが、昨日までの私とは違う。 「では、別のことを聞きます」 「何?」 「昨夜のドレスは気に入りましたか」 セレスティナが瞬きをした。 急な話題の変化についていけなかったのだろう。 「……ええ。お母様が選んでくださったの。可愛いでしょう?」 「ええ。よく似合っていました」 妹の表情が、少しだけ緩んだ。 褒められると思っていなかったのかもしれない。 私は机の上から一枚の写しを取った。 「孤児院の修繕費で仕立てたにしては、ずいぶん華やかでした」 セレスティナの笑みが、固まった。 部屋の空気も止まる。 「……何の話?」 「あなたの昨夜のドレス代です」 「知らないわ。そんなの、お母様が」 「そうでしょうね。あなたは知らなかったのかもしれない」 私は紙を見せた。 「でも、これからは知ってください。あなたの可愛いドレス一着分で、孤児院の雨漏りは直せたそうです」 セレスティナの顔から血の気が引いた。 「嘘よ」 「嘘なら、よかったのですが」 「お姉様が、私を悪者にしたいだけでしょう」 「かもしれませんね」 「お姉様!」 妹の目に、涙が浮かぶ。 いつもの涙。 けれど私は、もうそれを見ても動かなかった。 「泣いても、数字は変わりません」 そう言うと、セレスティナの涙が一瞬止まった。 その顔を見て、私は思う。 たぶん、この子は本当に知らなかった。 自分のドレス代がどこから出ているかなど、考えたこともなかったのだ。 けれど、知らなかったから無罪になるわけではない。 知らずに奪う人間は、知っていて奪う人間より無邪気なぶんだけ、厄介だ。 「セレスティナ」 私は静かに言った。 「帰って、お母様に伝えてください」 「何を……?」 「リディアは、もう家族の帳尻を合わせない、と」 セレスティナは後ずさった。 怯えた顔をしている。 今度の怯えは、少しだけ本物に見えた。 「お姉様、どうしてそんなに変わってしまったの」 私は答えなかった。 変わったのではない。 たぶん、ようやくやめただけだ。 姉だから。 長女だから。 強いから。 家族だから。 その言葉で、何でも差し出すことを。 ギルベルト閣下が立ち上がった。 「話は終わりだ。リディア、行くぞ」 「はい」 「待って!」 セレスティナが叫んだ。 「お姉様、私を置いていくの?」 その声に、胸がかすかに痛んだ。 幼い頃の妹が、部屋の扉の向こうで泣いていた記憶が蘇る。 『お姉様、置いていかないで』 私はそのたび戻った。 戻って、手を取った。 自分の課題が終わっていなくても。 母に叱られると分かっていても。 妹が泣けば、戻った。 だが今、私は振り返らなかった。 「ええ」 短く答えた。 「私はもう、あなたの後始末をするために生きません」 背後で、セレスティナが息を呑む音がした。 私はギルベルト閣下とともに、監査局の部屋を出た。 廊下に出ると、閣下が低く言った。 「よく言った」 「……また、それですか」 「嫌か」 「いいえ」 私はまっすぐ前を向いた。 「少し、効きます」 「なら今後も言う」 「ほどほどにしてください」 「考えておく」 その返事は、絶対に考えていない声だった。 けれど、私は少しだけ笑った。 背後では、まだ妹が泣いている。 泣けば誰かが戻ってくると、信じている声で。 でも、私は戻らない。 王宮の長い廊下を歩きながら、私は胸の中で静かに繰り返した。 泣けば許される人生は、今日で終わり。 そして、黙って許すだけの私も。 もう、昨日で終わった。第78話 雨音基金、最初の苦情 雨音基金に最初の苦情が届いたのは、正式始動から十二日目の朝だった。 一通ではない。 十七通だった。「……多くありませんか」 リディアは、机の上に積まれた封書を見つめた。 白。 薄青。 象牙色。 高級紙。 簡素な紙。 香水の匂いがする封筒まである。 雨音基金運営準備室の机が、朝から妙に華やかだった。 内容が苦情でなければ。「正確には、本日届いたものが十七通です」 ロザリーが淡々と答えた。「本日?」「昨日までの分を加えると二十九通」「増えましたね」「はい」 セオが隣で一通を開いている。「監査官、こちらは寄付者側ですね」「読み上げてください」「では」 セオが咳払いをした。「『長年にわたり慈善活動へ尽力してきた者として申し上げます。新しい報告書には寄付者名があまりにも小さく、支援先の要求ばかりが強調されているように感じます。善意に対する敬意が失われれば、今後、寄付を続ける者が減ることを危惧いたします』」 リディアは黙った。「次です」「まだあるのですか」「十七通あります」「そうでした」「『先日公開された支援先からの意見欄に、毛布が足りなかった、薬草茶の到着が遅かった等の記述がございます。寄付を受けた側としては、まず感謝を述べるのが礼儀ではないでしょうか』」 リディアの眉間に皺が寄る。 セオが読み上げる。
第77話 セレスティナ、祝う資格を悩む セレスティナ・ヴェルクレアは、姉の誕生日を知っていた。 冬至祭の五日前。 昔から知っていた。 だからこそ、今さら気づいてしまったことがある。「……私、お姉様の誕生日をちゃんと祝ったこと、あったかしら」 聖ルカ孤児院の台所。 焼き上がったばかりの菓子を前にして、セレスティナは呟いた。 返事はない。 菓子も答えない。 少し焦げた端の部分が、やたらと責めるようにこちらを見ている気がした。「何、その顔」 後ろからミラが言った。「どの顔?」「焼き菓子に怒られてる顔」「焼き菓子は怒らないわよ」「じゃあ、なんで謝ってるの?」 セレスティナは黙った。 確かに、さっきから心の中で何度も謝っていた。 焦がしてごめんなさい。 粉っぽくてごめんなさい。 前よりは柔らかいけど、まだお店のものみたいじゃなくてごめんなさい。 そして。 お姉様、ごめんなさい。 何もかも、最後はそこへ戻ってしまう。「お姉様の誕生日が近いの」「知ってる」「知ってるの?」「リディアが二十一になった日の次は、二十二になるんでしょ」「そうだけど」「じゃあ、おめでとうって言えばいい」 あまりに簡単だった。 セレスティナは思わずミラを見る。「そんな簡単じゃないのよ」「なんで」「なんでって……」
第76話 冬至祭五日前の招待状 レオポルド・ヴェルクレア公爵は、娘の誕生日を祝う方法が分からなかった。 正確に言えば、これまで祝ってこなかったわけではない。 花を贈った年もある。 宝石を贈った年もある。 王都で評判の菓子職人に焼かせた砂糖菓子を、箱いっぱいに用意させたこともあった。 ただし、それを娘が喜んだかどうか、レオポルドは覚えていなかった。 そこが問題だった。「……花は、何が好きだった」 公爵家の執務室で、レオポルドが呟いた。 机の向こうに立つ執事長アルマンは、すぐには答えなかった。「閣下」「何だ」「どちらのお嬢様でございますか」 レオポルドは顔を上げた。 昔なら、そんな聞き返しをされれば不快になったかもしれない。 娘といえば分かるだろう、と。 今は、その問いが正しいと分かる。「リディアだ」「リディアお嬢様のお好きな花でございますか」「ああ」 アルマンは少し考えた。「私の記憶では、特定の花を殊更お好みだったという話は存じません」「そうか」「ただ、執務机にはよく青紫の小花を飾っておられました」「好きだったのか」「分かりません」 即答だった。 レオポルドは黙った。 アルマンは続ける。「ご自身で選ばれたのではなく、庭師が机を明るくしようと置いていた可能性もございます。あるいは、他の花より香りが弱く、執務の邪魔にならなかっただけかもしれません」「……そうか」
第75話 花嫁衣装と監査官章 花嫁衣装というものは、人を黙らせる力があるらしい。 少なくとも、リディアは鏡の前に立たされた瞬間、三十秒ほど何も言えなかった。 王妃宮の衣装室。 三面に大きな鏡。 高い窓から差し込む冬の淡い光。 床には白い布が幾重にも広げられ、机の上には銀糸、真珠、細かな宝石、刺繍見本が並べられている。 そして、リディア自身。 純白の婚礼衣装。 腰から下へ流れる布は、立っているだけで雪のように広がる。 胸元から袖へかけては銀糸で百合が刺繍され、歩くたびに光の角度が変わる。 頭にはまだヴェールを載せていない。 それでも、鏡の中の女は十分すぎるほど花嫁だった。「……すごいですね」 ようやく出た言葉が、それだった。 王都第一と呼ばれる仕立屋マダム・フローラが胸を張る。「すごい、ではございませんわ、リディア様。美しい、とおっしゃるところです」「自分で?」「誰も褒めてくれないなら自分で言うべきですし、これだけ似合っているのですから言っても問題ございません」 横からセレスティナが何度も頷いた。「お姉様、綺麗よ。本当に。今までで一番」「今までの私は?」「そういう面倒な聞き方しないで」「少し気になったので」「綺麗だったわよ。ずっと綺麗。でも今日は、その、別の綺麗なの」「別の?」 セレスティナは困ったように眉を寄せた。「うまく言えない。お姉様が、お姉様じゃないみたいで」 リディアは鏡を見た。 そして、ほんの少し黙った。
第74話 悪女監査官の朝 雨の朝だった。 強い雨ではない。 窓硝子を叩くほどでもなく、庭の土を抉るほどでもなく、王宮の屋根を静かに濡らす細い雨。 ぽつ、ぽつ、と一定の間隔で落ちる音が、王国監査局三階の執務室にも届いていた。 以前のリディアなら、その音を聞きながら、どこかの雨漏りを思い出して胸を痛めていただろう。 聖ルカ孤児院の北側屋根。 濡れた寝具。 冷えた子どもの手。 支援優先度を下げられた申請書。 そして、その書類に気づくのが遅れた自分。 雨音は、罪悪感に似た音だった。 だが今は、少し違う。 雨音基金。 その名前がついたからだろうか。 雨が降ると、リディアは思うようになった。 どこかが濡れていないか。 誰かが困っていないか。 声が小さすぎて、帳簿に届いていない場所はないか。 それは痛みでもある。 だが、痛みだけではない。 見に行くための合図でもあった。「監査官」 ロザリーの声で、リディアは顔を上げた。「はい」「雨音基金、初回公開報告書の清書が届きました」 ロザリーが机に置いたのは、厚みのある白い冊子だった。 表紙には、飾りすぎない文字でこう書かれている。『雨音基金 初回公開報告書 設立準備期支援配分および会計確認』 白羽の会の記念冊子とは違う。 金箔もない。 寄付者の肖像画もない。 美しい詩文も、王妃宮の過剰な称賛もない。 ただ、必要な情報が並んでいる。
第73話 婚姻契約、最後の確認 婚姻契約書というものは、もっと甘いものだと思っていた。 少なくとも、リディアはそう思っていた。 いや、厳密に言えば、貴族の婚姻契約が甘いものではないことくらい知っている。 財産管理。 持参金。 相続権。 居住権。 子の教育方針。 家名の扱い。 夫婦間での社交義務。 それらを定めるのが貴族の婚姻契約だ。 夢見る令嬢が想像するような、薔薇色の紙に愛を誓う文書ではない。 それは分かっている。 分かってはいた。 だが、それでも。 レイヴァン邸の書庫で目の前に置かれた分厚い契約書を見た時、リディアは静かに言った。「……これは、婚姻契約書ですか」 ギルベルト・レイヴァンは、当然という顔で答えた。「そうだ」「監査報告書ではなく?」「違う」「王国法改正案でもなく?」「違う」「雨音基金運営規則でもなく?」「違う」「本当に?」「本当に」 リディアは、表紙をもう一度見た。 黒に近い紺色の革表紙。 銀の角金具。 中央に、無駄に厳格な文字でこう書かれている。『ギルベルト・レイヴァンおよびリディア・ヴェルクレア婚姻契約最終確認版』 最終確認版。 その響きがすでに甘くない。 隣には、確認用の羽根ペン、付箋、訂正紙、条項索引、そして蜂蜜入り茶が置かれている。 完璧な監査準備だ